プロフィール

こんにちは、Crypto Navi Web3.0『クリナビ』運営者のカイカイです。

普段は会社員をしながら暗号資産(仮想通貨)のブログを書いています。

Crypto Navi Web3.0『クリナビ』は、暗号資産(仮想通貨)× Web3.0 「DeFi × メタバース × NFTも含む 」の情報を中高年層や初心者に分かりやすく解説するサイトです。

特に意識しているのは、自分の実践・体験を中心に情報を発信することを心がけており、サイトを見てくれる読者の皆さんが失敗しなように、私の失敗事例も公開してます。

失敗は貴重な体験で成長になり、失敗にこそ学びがあるというものですが、読者の皆さんは、私と「同じ、しくじりはしないでね!」って思っています。

できれば失敗することなく最短で成功してもらいたい、そんな思いなんです。

 

こんな人におすすめ

  • 暗号資産(仮想通貨)を始めたい中高年の初心者
  • 老後資金を投資でなんとかしたい
  • 暗号資産(仮想通貨)の稼ぎ方を知りたい
  • 暗号資産(仮想通貨)・Web3.0・DeFi・NFT・メタバースなどを知りたい

このブログでは始め方や稼ぎ方を、画像とテキストで徹底解説し、補足が必要な事柄は動画をおりまぜて、分かりやすいサイトにしてます。

ブログを作った訳

 

読者の皆さんへの理由

  1. これから、暗号資産(仮想通貨)で資産を増やしたい人が失敗しないように。「私のように、しくじりらないで、最短で資産を増やしてほしい」
  2. 暗号資産(仮想通貨)で人生を変えることができるようにという思い。「資産を増やすことや、最新のテクノロジーを楽しむ」

 

自分への理由

  1. ブログを書くことで、自分の知識が再構築されて最大の学習効果がえられ成長できると思ったから。「アウトプットすることで知識が脳に定着する」
  2. 最新情報をリサーチし、まとめる事で最新の知識を獲得できる。
  3. ブログ運営の実践ができる。

 

上記理由から、読者の皆さんと自分へのメリットが大変あると思ったから。

 

運営者の経歴

 

年齢:50代



本業経歴:工業高校卒業後 ➜ 大手電力会社の技術職 ➜ 絶対的な安定を簡単に手放す ➜ 電気メーカーの技術サービスへ転職 ➜ ブロックのサービス責任者「管理職」を務める ➜ 順風満帆と思いきや、突然の降格人事、自分の部下が上司に「下剋上」 ➜ 会社にたよならい生き方「副業にチャレンジ」➜ 現在は会社員とブロガーとして活動中



副業経歴:Youteube・セミナー講師・ブログを始めるが挫折「当時は今のようにYoutubeをしてる人はいなかった」 ➜ 同時に投資を学ぶ「自社株の投資で儲かっていた」➜ 仮想通貨に出会う ➜ 2015年初めてビットコインを購入 ➜ 詐欺プロジェクトで資産を溶かす ➜ そんな悲惨な事にもめげず、仮想通貨は勉強を継続 ➜ 再度、仮想通貨の投資にチャレンジすることを決意 ➜ 同時に私を同じ失敗する人がでな出ないように、初心者向け、中高年向けにブログを開設する



副業実績:セミナー講師として、セミナーを開催し20万円の収益をあげる。


 

 

プロフィール

 

 

1969年生まれ。熊本県で生まれ育ちました。

 

かなり田舎で、子供のころは、川で泳ぎ、山でクワガタやカブトムシをとり野生的な遊びで育ちました。

 

いまでは、その当時の風景はかなりかわりましたが、雰囲気はいまも当時を感じることができ、懐かしい気持ちになります。

 

 

小学生時代は自由で楽しい時代

 

私たちの子供のころは、今のようにゲームやスマホなんてない時代ですから、外で日が落ちるまで、遊んでました。
公園で鬼ごっこのようなもの「いろんなバリエーションがあった」、コマまわし、ゴムボールで野球なんかやってました。

 

勉強は全くしない、宿題ですらやらない、徹底してました。興味の無いことはやらない。

母親も学校に呼ばれては、勉強させるようにいわれていたそうです。
でも、全く勉強しろとは言われたことがない。「母親は小学校のときは、自由にやればいいという考え」でした。

 

なので、自分の好きなことしかやってなかった。楽しい思い出しかない小学生時代です。

 

そんな、楽しい小学生時代も終わりをつげて中学校へ

 

中学時代は冬の時代

 

 

中学校になると、以前の自分からは想像のできない意欲がわいてきたのを覚えています。
なんと、自ら勉強をはじめ、塾に行きたいと母親にお願いし、塾に通うことになりました。

 

当時、部活でバレーボール部に入って汗をながしてました。

でも塾との両立は難しく、バレーボールはやめて、塾を選びました。
ここから、不幸のはじまり。

 

 

バレーボールをやめてことで、運動不足になり、ブクブク太りはじめて完全なデブになってしまいました。

デブになると、自分のセルフマインドも下がり人から馬鹿にされているように思えてきます。運動もできなくなり、運動会では走ればビリ、持久走も最下位を争うほどです。

 

当然、女子からはあいてにもされません。

 

そうなると、勉強もやる気がなくなり、塾もやめてしまいい。
成績もどんどん下がっていきました。

 

受験をするときは、トップクラスの成績から中間の上に。
国立の高等専門学校を目指していたのに。「5年間、技術系を徹底的に学ぶ学校」
受験はしましたが、当然、不合格。

 

好機に転換の高校時代

 

 

私は私立の工業高校に入学。電気科でトップをとって大手電気メーカーを目指す目標にしました。
とはいえ、デブデブのワタシです。自信喪失した状態での高校生活のスタート。

 

この現状をかえないといけないという思いは強く、部活に入って痩せて、自分を変えてやるという思いです。

 

 

そんな中、私の前席の同級生がサッカー部に入部してました。中学校時代はサッカー経験者です。「おまえも、入れば!すぐ痩せるぞ」

 

そんな感じでさそわれ、そく入部を決意しその日に入部。

 

次の日から練習に参加。

 

サッカーする体系ではなく、なんかの間違い、柔道部と間違っているんじゃないの。
なんて、言われました。

 

当時の状況をよく覚えています。

入部の挨拶でハッキリ目的を伝えました。

痩せるために入部しました、どうぞよろしくお願いします。

理由を伝えたら皆んなに納得してもらったのを覚えています。

 

それから3年生の先輩のお付きみたいな感じで、可愛ってもらっいました。「通称デブゴン」です。「お〜いデブゴン、冷水もってこい」、「シューズもってこい」とか、お付きのマネージャーです。

 

めちゃくちゃおもしろく、ユーモアたっぷりの先輩です。
その先輩は、今でいうセンターバック当時はスイパーというポジションで守りの要で、試合のときはチームを引っ張ってました。

 

日頃の行動・言動とはまるで違う先輩をみたときに、かっこいい、俺もこうなりたいと。そう思うようになり、痩せる目標が、あの先輩のポジションをやりた。そう気持ちに変化しました。

 

そうこうしているうちに、尊敬している先輩は引退し、2年、1年のチームになります。
そこからは、厳しい毎日の練習がはじまりました。

 

かなりり、きついハードな練習ですが、脱落することなく、ついていき。気がつけばチームメンバーと体力的には同レベルまで向上し、みるみる痩せていきました。

夏休みの地獄の練習を乗り越え、新学期を迎えるころには激ヤセ筋肉もりもりもの別人に変化していて、クラスの友達から驚かれました。

 

ここから高校生活が好転する。

 

どんどんサッカーのレベルも上がっていき「レベルの高い環境にいると自分も自然と同じよになる」環境が私を大きく変化させたのです。

 

2年生になる頃には、レギュラー争いができるまでになりました。
驚きです。

 

「目的が」 痩せる ➜ レギュラーポジションをとるに変化していたのです。

 

学業成績もどんどん上がっていき、学年で5位以内から落ちない状態になり、学校での評価は最高のものとなりました。
この調子でいけば、就職も大手の電気メーカー「誰もが知っている」そこに行けると言われました。

 

そんな中、2年中心のチームでレギュラーをとることができ、ポジションは左のサイドバックです。今は攻撃もするハードワークを、求められるポジションで日本代表の長友がやってますね。

 

嬉しかったのと、俺の目指すのはあの先輩のポジション、スイパーだ。「ヘディングとカバーリング、全体を見る視野を磨いて、このポジションに挑戦ぞ!」そう思ってました。

 

 

突然、練習試合でチャンスが訪れます!

スイパーのポジションを試すことになり、まずまずの結果を残すことができました。そうなると、監督も私も選択肢の一つです。

 

次回のチャンスで必ず結果をだし、スイーパーをゲットする、意気込みで練習に取り組み、何とポジションを獲得。その後は、引退までスイパーは私が努めることになります。

 

チームは県大会にでれるか、県大会で2回戦までいけるかというチームでしたが、充実したサッカー生活でした。
最後の試合は、なんとも言えない気持ちで、これで最後、もう終わりなんだという、気持ちはほんとに、簡単には味わえない、淡い青春の感覚です。

 

サッカーを引退し、次の目標の就職です。

 

 

なんと、就職の年に、日本と米国との間でプラザ合意がおこなわれて、日本円が高くなり、一時円高不況と呼ばれる状況となり、就職が厳しくなりました。

 

私の目標にしていた、大手電気メーカーからの求人はなく、落ち込んでました。
その後すぐに、日本経済はバブルを向けることになります。「おおいに活気ずき、日本はお祭り状態」ジャパン・アズ・ナンバーワンと呼ばれロックフェラービルまで買ってしまう、ほどにバブル状態になる。

 

私はしかたなく、電力会社に就職することに。これってかなり凄いことで、普通は就職できません。
先輩たちの信頼関係から、この学校出身の社員は優秀だから、取っておこうということです。

 

学校に優秀な上位数名を企業が獲得するという流れです。

 

そして、高校卒業、電力会社へ就職。

 

社会人生活がスタート

 

 

私はプラントエンジニア「発電所のメンテナンスの管理業務」になるつもりで入社してみると送電線の施工管理部門へ。同期入社では私一人です。
正直、ショックでした。でも、配置転換で移動できるだろうと思っていました。

 

なんで自分が送電線部門なのか?と先輩に尋ねると。

こう揶揄されたことを思います。

履歴書で紙飛行機を折って一番、遠くに飛んだやつが配属されるんだよ!軽いってこと。意味が分からなかったんですが、現場に配属されて比喩した意味に気づく。

送電線は高所作業だから軽いほうがいい。こんな意味からのジョークです。たちが悪い!

私は配置転換でいずれ移動すれば、いいと思っていましたが、先輩の話では職種が全く違うので途中での移動はまずない。と言われて、がっかりしてのを覚えています。

 

新しい職場での生活がスタート。

 

仕事は、いきなり山梨県の送電線建設の現場に行くことに。生活はかなり過酷なもので、本当に!と思うようなことばかり。

 

生活環境は、なんとプレハブで建てたもので職場事務所に隣接してます。仕事と生活の区別がない環境これには驚きました。

 

過酷な日常生活

 

1日のルーティーン
朝は6時に起床して、冬であれば、ストーブの灯油をいれ事務所を温める ➜ 事務所の掃除 ➜ 7時から食堂で食事 ➜ 8時には現場で仕事 ➜ 日が暮れるまで仕事18時ごろ ➜ 事務所で仕事 ➜ 現場責任者の仕事終わりの号令で食事 ➜ 20時ころ就寝
こんな流れです。テレビは食堂に1台で年配の方がNHKをみて喜んでいる。
近くには、お店や遊ぶところも車でいかないとない。私は持ってないので、部屋で音楽を聞いて眠るのが流れ。

 

これが18歳の生活とは思えない寂しい現実。

 

お風呂も1つしか無く、先輩は事務所で酒をのんで、グダグダやっているので、新人は風呂になかなか入れません。「先に入れる雰囲気ではない」

 

入れる時間帯は23時以降でした。

 

なので何日も、お風呂に入ることができず、寝てしまい足は臭くなるし体も臭う。

最悪です。

 

そんな中の楽しみは年齢の一番近い先輩「35歳」がパチスロが大変好きで、つれていってもらってました。けっこうはまりましたね。

 

女の子と遊ぶとか無縁の環境でたまにスナックにつれていってもらい、ママとお話する程度です。
もう、おれの人生は一体どうなっているの?そんなふうに感じてました。

 

厳しい労働環境

 

更に言うと、休みは2週間に2日連休というのがこの業界の普通で、かなりキツイです。
忙しいときは、4週間、休み無しという事も何度かありました、労働基準法違反ですね。

 

ま〜30年以上前ですから、グレーゾーンといったところですかね。
こうなると、今日が何曜日なのか分からないようになります。

 

毎日が同じ事の繰り返しで、今日が何曜日なのか分からないようになります。
いい例で海上自衛隊が金曜日の食事メニューにカレーにするのは有名な話ですね。

 

仕事の内容はさらに過酷で送電線は低いもので地上50m、高もので100mくらいあります。これを木登りするように手足で登って行きます。
めちゃくちゃ、きついです。

 

恐怖で無駄に力を使うので、サッカーで鍛えていた体も悲鳴をあげてしまうほどです。

 

また、冬の高所作業は、寒さとの戦いでもあります。とにかく寒い、極寒です。
私は現場監督の立場になるので、作業するわけではなく安全管理が主な仕事になり、体はほとんど動かすことはないことも寒さを感じてしまう要因でもあります。

 

そんな中での作業は協力業者さんが、仕事のとろい私にビシビシ指摘してきます。当然です、プロの仕事で命をかけてます、新人とか関係ありません。その度に「すいません、ちょっとまってください。確認します」そんな会話ばかりです。

 

当然、協力業者さんは分かってやってるんです、今後を考えて鍛えておかないと自分たちの仕事に影響がでるから。
新人はみんな、こんな感じです。でも悪気があるわけではないんですね。

 

私は、もっといろんなことをしたいし、自由に遊びたいし、仲間もほしい。この環境を変えないと、難しいと思ってました。「その環境でもやり方はあったとは思いますが」

 

とにかく、こんな生活はいやだ、環境を変えたい気持ちでいっぱいでした。

 

もう我慢ができず「会社の上司にやめさせてください!」と申しでました。当時の部長が面談にきて「とにかく今は人が足りないんだ、すまんがもう少し、我慢して仕事をしてくれ!」とお願いされ、こんな私でも戦力になっているんだと思いました。

 

いつまでですか?期限を確認したところ、1年から2年と言われ仕方なく承諾してしまい、話は有耶無耶にされ終わりました。

 

不思議なことに、こんな生活を2年以上続けていいるとなれてくるんですね。惰性で仕事を続けていたんです。

 

そんな中、新人の呼び戻し研修が実施されることになり、同期の連中と久しぶりに会えるな。と考えていたら、俺はいったい何やってんだろって、我にかえりこのままでいいのか?悩みました。

 

一体俺には何やってんだろ!会社辞めて新しい生活するんじゃなかったのか?自分の楽しみもなくて、365日仕事ずけ、これでいいのか? 惰性で続けていいのか?
そんなふうに考えるようになってしまったんです。

 

恐ろしいことにその環境に慣れ親しんでおり、これが当たり前。人間は凄いもので、良くも悪くも環境に適応する能力があり、いい環境にいれば自分を大きく成長させて高みに導いてくれるし、悪い環境にいれば最悪の状態にもなる。

 

そんな中の研修の話です。

 

以前から、会社を辞めるキッカケを探していたのでチャンスです。「これがキッカケになる、研修をブッチして、そのまま辞める、これだ!」

 

惰性で生きていた私は、現実に引き戻され行動にでる決意を固めました。

 

はっきりいって、非常識で迷惑千万でめちゃくちゃな事です。

 

そして研修当日、研修に行くと言って仕事現場をあとに、東海道線に乗って蒲田の駅で下車、カプセルホテルでの生活を始めることに。
「研修所には会社やめるので、研修には参加しません」とだけつげ、疾走生活がスタート。

 

強制的に辞めるしかない。

 

疾走生活はというと。

蒲田で朝から毎日パチンコを閉店までやって、その後は居酒屋で一人酒盛り状態の生活を続け2週間がたったところで、会社に連絡し、やっと辞めることにOKがでました。「よく捜索願いがだされなかったと今では思います」

 

しかし、なんと最後のお願いで1ヶ月だけ長野の現場だけたのまれ、しかたなく了承しました。
「世間はバブルの真っ只中で、こんな過酷な仕事は誰もやらないので、人で不足な状態」

 

ま〜致し方無いと割り切り、最後の奉公という思いでした。

 

1ヶ月たってやっと、退職ができて、田舎にかえることになります。

 

プー太郎生活時代

 

実家に帰ると、もうしばらく仕事はしたくない、そんな気持ちで、毎日パチンコと酒ばかりのんで怠惰な生活をおくり、失業保険金と貯金がなくなるまで、何もしませんでした。

 

もう貯金が無くなった、そんなときに驚きの電話がなりました。何と辞めた会社の経理担当者からです。「君は退職したのが3月末で、会社のボーナス支給の対象期間内で満額ボーナスがでるから口座番号を教えて」との電話です。

 

「マジか〜 ラッキー」そんな感じです。
なんと30万円を振り込んできました。さすが大手企業、電力関連すごいと思った瞬間でした。

 

ということで、プー太郎生活が延長されることになります。

 

でも、直ぐにお金はそこをつき、とうとう就職活動にはいります。

 

再就職する

 

そこで、今の会社に出会います。「現在も努めていいます」
業務用の電気機器メーカーの技術職です。簡単な試験と面接を受けて採用が決まりました。

 

入社した初日に部長に言われた言葉を今でもハッキリ覚えてます。「お前の代わりはいくらでもいるから、もし辞めるなら早いうちにしたほうがいいぞ」これって新入社員に言う言葉でしょうか。

 

驚きました。それだけ厳しいから、覚悟して仕事にあたれという意味だと今では理解できますが、当時は意味不明でした。

 

多少予測はしていたものの、職場はパワハラが全開で「バカ、ボケ」なんかは当たり前。時には「死ね」なんて言われました。
まだまだ会社が成長過程でしたので、社員も勢いがいいというのか、イケイケなのか、凄まじい環境で、怒号が飛ぶのも日常です。

 

まさに「ザ・昭和」です。

 

そんなでも、よく職場の上司と飲みにいっては馬鹿話をする人間関係で、言葉はキツイけど今のパワハラとは違う感じでした。それでも上司についていく、私をかわいがってくれていたと思います。

 

そうこうしているうちに、私の仕事ふりを評価してもらえるようになり、小さい部署の技術責任者に抜擢してもらい、ここからどんどん成果をあげていくことになります。

 

そのたびに転勤がつきまとい、だいたい2年〜3年で移動となり九州各地を飛び回り、30歳には各県をまとめる課長、マネージャーとして仕事を任されるまでになり、苦労はたえなかったものの、順風満帆です。

 

転勤が多く結婚の機会が、かなり遅れてしまったのですが、38歳で結婚し子供にも恵まれ、これからは部長を目指すそんなところまでのぼりつめてました。

 

ここで、事件がおきます。

 

組織体制が変わる。

 

上層部がガラリと変わり、私は特に失敗したわけではないのですが、あまり評価してもらえない、孤立していくような状況においこまれていきます。

 

私をよく思わない勢力が力をもってきて、邪魔な存在になってしまった。
目の上のたんこぶで、影響力がある私には、意見を言いにくいし、できれば排除したいそんな動きがあきらかに見えてきました。「サラリーマン社会の、あるあるですね」

 

そんな中、突然の人事で私は長年勤めていた、課長から降格され一般の技術職へ配置転換されました。その年は、成績を少し落とした年で、そこまで咎められるレベルではないにもかかわらずです。

 

正直、やられたと思いました。
理由は、成績の低下と若い社員にチャンスを与えるために、ポジションを譲るため。そんな理由でした。

 

それなら、一般職ではなく、別の管理職用意するのが普通です。

 

まわりから、いろんな話を聞くと、当時の部長とかなり昔に揉めたことがあったんです、それを根にもっていて、今回の人事を画策したらしい。

 

まわりの取り巻きに自慢げにこう言っていたそうです。「俺が、降格させた、これで終わりにしてやった」って!

 

プライドはズタズタに怒りを抑えるのに苦労し、受け入れるには時間がかかりました。今までの部下が上司になるんです、これはキツイですよ。

 

ま〜仕方がない。甘かったんだと自分に言い聞かせて、また1から頑張ろうと気持ちを切り替える。

 

ここが、自分の人生を振り返る上でいい機会になりました。こんなことで自分の人生が左右される自分で稼げることができれば、会社を辞めてもいいのに。

 

どうにか、稼ぐ方法はないか、ここから思考錯誤がはじまります。「気づくのが遅いけど」

 

副業を始めるも…

 

株式投資・インターネットのオプトインアフィリ・Youtube・セミナー講師・ブログなどあらゆるものにチャレンジしては挫折してきました。

 

Youtiuebなんかも2014年に目をつけ、月に数万円稼げるようになったのですが、チャネルがバンされ辞めてしまいました。諦めず継続していたら物になっていたかもしれません。

 

2015年は初めてビットコインを購入する。2017年に詐欺にあい全て資産を溶かす。
2019年に再度ブログを始めるが成果はでない、こんな状態でした。

 

そんな中真剣にもう一度、ブログと仮想通貨を2020年にはじめました。仮想通貨は、最新のテクノロジーで興味があり継続して勉強してました。
今では、まーまー詳しいと思います。

 

そこで、仮想通貨の情報をブログでは発信しこれから始める人の役にたてればという思いと、私自信のアウトプット、勉強の場になるので発信していこうと決意しました。

 

仮想通貨ブログを始める

 

特に40代から50代のかたにむけて、投資で稼ぐことや、ブログや情報発信で稼げることを理解し挑戦してもらいたい。これからは人生100歳時代、50歳はまだ半分でしす、これからの人生を楽しく生きるのに必要な資金をどうやれば増やせるのか一緒に考えて、ともに進んで行きたいというコンセプトで運営しております。

 

クリプトやWeb3.0やNFTやDeFiは若い人たちだけが楽しみ、稼げるものではなく、私達中高年が積極的に参加して資産を増やしていきたいと考えています。

 

…というのが2022年までの「カイカイ個人史」です。どうぞひきつずきよろしくお願いいたします。