こんにちは、Crypto Navi 運営者のカイカイです。
普段は会社員をしながら暗号資産(仮想通貨)のブログを書いています。
Crypto Navi は、暗号資産(仮想通貨)× Web3.0 ×AIの情報を中高年層や初心者に分かりやすく解説するサイトです。
特に意識しているのは、自分の実践・体験を中心に情報を発信することを心がけており、サイトを見てくれる読者の皆さんが失敗しなように、私の失敗事例も公開してます。
失敗は貴重な体験で成長になり、失敗にこそ学びがあるというものですが、読者の皆さんは、私と「同じ、しくじりはしないでね!」って思っています。
できれば失敗することなく最短で成功してもらいたい、そんな思いなんです。
Crypto Naviは以下のような方々におすすめです
- 暗号資産(仮想通貨)に初めて挑戦しようと考えている初心者・中高年の方
- 老後の生活資金を投資を通じて増やしたい方
- 暗号資産(仮想通貨)の稼ぎ方を理解したい方
- 未経験だけどブログで稼ぎたい方
- Web3.0について学びたい方「NFT・DeFiも含む」
- AIについて詳しく知りたい方
- ChatGPTを活用したいと考えている方「特に中高年の方」
私のブログでは、暗号資産の始め方や稼ぎ方を、画像やテキストによる詳細な解説で提供しています。また、補足説明が必要と思われる事項については、動画を交えて分かりやすく説明しています。
ブログを作った訳
読者の皆さまえ
このブログは、暗号資産(仮想通貨)を通じて資産を増やしたい皆さんのために作成されました。私の失敗から学んだ教訓を共有し、皆さんをサポートしたいと思っています。
「最短で資産を増やす方法」を共有し、皆さんが暗号資産(仮想通貨)を活用して人生を豊かにする一助となれば幸いです。
また、AI技術の進歩により仕事が奪われることへの不安を感じている方に対しては、AIを味方につけ、仕事の効率化や成果向上につなげるための情報を提供したいと考えています。AIは敵ではなく、使いこなすことで大きなパートナーとなり得ます。
私自身へ
ブログを書くことは、自己の知識の再構築につながり、学習効果を最大化する機会だと考えています。
「アウトプット」が理解を深める手段であると信じています。さらに、最新情報のリサーチや整理を通じて、最新の知識を獲得できます。ブログ運営自体も新たな経験となり、その実践を通じて学ぶことができます。
AI(ChatGPT)に関連する記事を書くためには、自分が実際に学び、体験することで私自身の学びが深まります。
なので、このブログが自分自身の学習プロセスに寄与すると確信しています。
運営者の経歴
年齢:50代
本業経歴
工業高校卒業後、大手電力会社の技術職に就きましたが、その絶対的な安定を放棄し、電気メーカーの技術サービスに転職しました。
その後、ブロックのサービス責任者(管理職)を務めましたが、突然の降格人事に見舞われ、自分の部下が上司となるという「下剋上」を体験しました。その結果、「会社に頼らない生き方」を選択し、副業に挑戦することにしました。現在は会社員とブロガーとして活動しています。
副業経歴
YouTubeやセミナー講師、ブログ運営を始めましたが、挫折しました。「当時はYouTubeをやっている人は少なかった」その後、投資を学び始め、「自社株の投資で利益を上げる」経験をしました。
そして、仮想通貨と出会い、2015年に初めてビットコインを購入しました。しかし、詐欺プロジェクトに遭遇し、一時は資産を失いました。それでもめげず、仮想通貨の勉強を続け、再度投資にチャレンジすることを決意しました。
そして、私と同じ失敗を繰り返す人がいないように、初心者向け、中高年向けのブログを開設しました。
副業実績
セミナー講師として活動し、開催したセミナーで20万円の収益を上げました。また、ブログ運営からは毎月数万円の収益を得ています。
プロフィール
1969年に生まれ、熊本県で育ちました。
私が子供の頃はかなり田舎で、川で泳いだり、山でクワガタやカブトムシを捕まえるなど、自然で野生的な遊びが日常でした。
現在は風景は大きく変わりましたが、雰囲気は当時のまま残っており、懐かしい気持ちに浸ることができます。
小学生時代は自由で楽しい時代
今のようなゲームやスマートフォンは存在せず、日が暮れるまで外で遊びまくりました。
公園での鬼ごっこや、コマ回し、ゴムボールでの野球などを楽しみました。
勉強は全くしない、宿題ですらやらないという徹底ぶりでした。
興味のないことには手を付けませんでした。母親は学校から勉強をさせるように言われることもありましたが、全く勉強を強要されたことはありませんでした。
母親は「小学校の時は自由にやればいい」という考え方でした。
そのため、自分の好きなことだけに没頭していました。楽しい思い出ばかりの小学生時代です。
そんな楽しい小学生時代も終わりを迎え、中学校へと進学しました。
中学時代は冬の時代
中学校に入ると、以前の自分とは想像もつかないほどの意欲が湧いてきたことを覚えています。自ら勉強を始め、塾に通いたいと母親に頼み、塾に通うことになりました。
当時、バレーボール部に所属して汗を流していましたが、塾との両立は難しく、バレーボールを辞めて塾に専念することにしました。
ここから不幸が始まりました。
バレーボールを辞めたことで運動不足になり、次第に太り始め、完全なデブになってしまいました。太ってしまうと自信も失い、人から馬鹿にされているように感じるようになりました。
運動もできなくなり、運動会では最下位争いのような状況になりました。当然、女子からも相手にされませんでした。
そうなると勉強のやる気も失われ、塾もやめてしまいました。
成績もどんどん下がっていきました。
受験時には、トップクラスの成績から中間の上位に転落してしまいました。
本来は国立の高等専門学校を目指していたのですが、「5年間、技術系を徹底的に学ぶ学校」の受験に失敗しました。
好機に転換の高校時代
私は私立の工業高校に入学し、電気科でトップを目指すことにしました。ただし、自信を喪失したデブのままで高校生活をスタートさせました。
この状況を変えなければならないという思いが強く、部活に入って体を引き締め、自分を変える決意をしました。
そんな中、前席の同級生がサッカー部に入部していました。彼は中学時代からサッカー経験がありました。「お前も入ればすぐに痩せるぞ」と誘われ、即座に入部することを決意しました。
翌日から練習に参加しましたが、私はサッカーをする体型ではなかったようで、「なんか間違っているのではないか」「柔道部と間違えているのではないか」と言われることもありました。
当時の状況をよく覚えています。
入部の挨拶でハッキリと目的を伝えました。
私は皆に自分の理由を説明し、それが納得されたことを覚えています。
その後、3年生の先輩の補助役となり、彼らにかわいがられました。私のニックネームは「デブゴン」で、「お〜いデブゴン、冷水を持ってきて」、「シューズを持ってきて」と、マネージャーのような役割を果たしていました。
その先輩は非常に面白く、ユーモアに溢れていました。彼は当時「スイパー」と呼ばれるポジション、現在で言うセンターバックで、試合のときはチームを牽引していました。
彼が日常とは全く違う振る舞いを見せる時、私はとても感銘を受け、自分も彼のようになりたいと思い始めました。それから私の目標は、ただ痩せることから、先輩のポジションを目指すことに変わりました。
そのうちに、尊敬する先輩は引退し、私達は2年生、1年生のチームとなりました。それから始まる厳しい日々の練習で、私は辛抱強く続け、気づけばチームメンバーと同レベルの体力を持つようになり、見る間に痩せていきました。
夏休みの過酷な練習を乗り越え、新学期を迎えるころには、筋肉質でスリムな別人に変わっており、クラスの友達から驚かれました。
ここから高校生活が好転する。
どんどんサッカーのレベルが上がり、「高いレベルの環境に身を置くと自分も自然と成長する」、その環境が私を大きく変えました。
2年生になる頃には、レギュラーの座を争うことができるようになりました。驚きでした。
「目的が」痩せるからレギュラーポジションを取るへと変化していました。
学業成績もどんどん上がり、学年で常にトップ5に入るようになりました。学校での評価は最高のもので、このまま行けば大手電気メーカーへの就職も可能だと言われました。
このような状況の中、私は2年生中心のチームでレギュラーの座を確保し、ポジションは左のサイドバックとなりました。このポジションは、攻撃にも参加するというハードワークが求められるもので、日本代表の長友選手が活躍していますね。
私が目指していたのは、先輩のスイーパーのポジションでした。「ヘディングとカバーリング、そして全体を見渡す視野を磨き、このポジションに挑戦する!」と思っていました。
その後、練習試合でスイーパーのポジションを試すチャンスが訪れ、まずまずの結果を残すことができました。これにより、私と監督の選択肢の一つになることができました。
次のチャンスでは、絶対に結果を出してスイーパーのポジションを確保するという意気込みで練習に取り組み、ついにポジションを獲得しました。それ以降、私がスイーパーの役割を果たすことになりました。
当時のチームは、県大会に出場するか、もしくは2回戦まで進むことができるかどうかというレベルのチームでしたが、充実したサッカー生活を送ることができました。最後の試合は、何とも言えない感情が湧き上がり、「これが最後だ、もう終わりだ」という気持ちを味わうことができました。この感情は、青春の一部とも言えるでしょう。
サッカーを引退し、次の目標の就職です。
しかい、その年には日本と米国の間でプラザ合意が行われ、円高不況が発生して就職が難しくなりました。
私の目標にしていた、大手電気メーカーからのオファーはなく、少々落ち込みました。しかし、すぐに日本経済はバブルに向かい、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称されるほどの活気がありました。この間、私は電力会社に就職することになりました。
そして、高校を卒業し、電力会社に就職。社会人生活が始まりました。
社会人生活がスタート
入社時にはプラントエンジニアとして「発電所のメンテナンス管理業務」を担当するつもりでしたが、実際には送電線の施工管理部門へ配属されました。ここには私だけが新人でした。
配属先が予想外だったことにショックを受けましたが、移動できるだろうと考えていました。しかし、先輩からは職種が全く違うため、途中での移動は難しいと言われ、失望しました。
なんで自分が送電線部門なのか?と先輩に尋ねると。
こう揶揄されたことを思います。
履歴書で紙飛行機を折って一番、遠くに飛んだやつが配属されるんだよ!軽いってこと。意味が分からなかったんですが、現場に配属されて比喩した意味に気づく。
送電線は高所作業だから軽いほうがいい。こんな意味からのジョークです。たちが悪い!
私は配置転換でいずれ移動すれば、いいと思っていましたが、先輩の話では職種が全く違うので途中での移動はまずない。と言われて、がっかりしてのを覚えています。
新しい職場での生活がスタート。
そして、新たな職場での生活が始まりました。仕事は、山梨県の送電線建設現場に赴くことから始まりました。
生活環境は厳しく、仕事と生活の境界がない状況でした。これは、事務所がプレハブで建てられ、職場に隣接していたからです。
過酷な日常生活
こんな流れです。テレビは食堂に1台で年配の方がNHKをみて喜んでいる。
近くには、お店や遊ぶところも車でいかないとない。私は持ってないので、部屋で音楽を聞いて眠るのが流れ。
私は孤独な現実を18歳ながらに生きていました。バスルームはひとつしかなく、オフィスで先輩たちは笑いながら酒を飲む。新人である私に風呂に入る時間など与えられませんでした。その時間は23時以降に許されるだけ。何日も風呂に入らず、体が臭い、それは真の苦痛でした。
唯一の楽しみは、私と最も近い年齢の35歳の先輩と行くスロットでした。それにはほとんど病みつきになってしまいました。女性と遊ぶような余裕は全くなく、時折先輩にスナックに連れて行かれ、ママと話す程度でした。私の人生は何を成しているのか、考えるだけで息が詰まる。
私たちの労働環境は過酷で、この業界では普通に2週間に2日の連休が与えられるというもの。特に忙しい時期には休みなしで4週間働くこともありました。それは労働基準法違反に相当します。しかし、これは30年以上前のことですから、当時はグレーゾーンだったかもしれません。
そんな状況になると、今日が何曜日なのかすら分からなくなります。
仕事の内容はさらに過酷で、送電線の高さは低いものでも50m、高いものでは100mもあります。それを人間の手足で登ることが求められます。それは厳しさの極みで、サッカーで鍛えた体も悲鳴を上げるほどでした。
そして、冬の高所作業は寒さとの戦いでもありました。私は現場監督の立場になり、安全管理が主な仕事になります。体はほとんど動かさないため、寒さを感じてしまいます。
しかし、その中でも協力業者からは鋭い指摘を受けることもあります。それは当然のことで、命をかけたプロの仕事ですから、新人である私にも妥協は許されません。その度に「すいません、ちょっと待ってください。確認します」と答えるだけでした。
しかし、そのような状況でも私は何かを変えるべきだと思っていました。もっと色々なことをしたい、自由に遊びたい、仲間を作りたい、そんな気持ちでいっぱいでした。
そのような気持ちを抑えきれず、会社の上司に「辞めさせてください!」と申し出ました。しかし部長は「とにかく今は人が足りないんだ、もう少し我慢してくれ」と頼みました。私はその言葉に、自分が会社で必要とされていると感じました。
部長に期限を問うと、「1年から2年」との答え。仕方なくそれを受け入れ、あっという間に月日は流れ、それ以降はただ、だらだら時間が過ぎていくだけでした。
そして、ある日、研修が始まるとの通知が来ました。「はっ…」これは逃げ出す絶好の機会だと思いました。「これだ!研修をブッチして、そのまま辞める」と決意しました。
そして研修当日、現場を後にし、どこに行くのかあてもないので、とりあえず、東京は下町の蒲田のカプセルホテルでの新生活が始まったのです。「研修所には会社やめるので、研修には参加しません」とだけ伝え、新たな道へと進んでいきました。
強制的にやめるしかない現実
疾走生活はというと。
その舞台は蒲田のパチンコ屋でした。朝から閉店まで、熱を帯びた鉄球が轟音を立てながらダンスするその空間に身を任せ、終わることのない酒盛りが夜を彩りました。
そして、そんな乱痴気な日々が二週間経った頃、自身の雇用主に最後の言葉を伝え、遂に退職することを決めました。「今となっては、誰もが私を捜していなかった事に驚きます」と反省しきりです。
しかし、その最後の一抹の情で、私は長野の現場へと足を運びました。1ヶ月だけの期間限定で、しかたなく引き受けた仕事です。
「バブル期の真っ只中、この厳しい仕事をする者は皆無で、人材は全く足りていない」との世間の声。そんな状況を知りつつ、私は最後の使命を全うする覚悟を決めました。
そして1ヶ月後、ようやく退職することができ、故郷へと戻りました。
プー太郎のはじまり
「プー太郎」の生活が始まったのはその時からです。
一切の労働から距離を置く、これぞ究極の無為な生活。仕事はしたくない、ただただパチンコと酒に身を委ねる毎日。失業保険と貯金が尽きるまで、何もしない、そんな生活が続きました。
ところが、ある日突然驚くべき連絡が入りました。
なんと、かつての雇用主からの電話です。「あなたが退職したのは3月末、そのためボーナス支給の対象期間内にあたり、満額ボーナスが出るので口座番号を教えてください」との声。
「まさか、本当に?ラッキー!」と驚きのあまり口から出た言葉。驚くべきことに、30万円が振り込まれました。大手企業とはいえ、電力関連業界の力は想像を超えていました。
そのお金で、私のプー太郎生活は延長戦へと突入しました。
しかし、それも束の間、やがて金は尽き、やむなく就職活動を開始しました
再就職する「現実世界へ」
そして出会ったのが、今現在も勤めている会社です。「業務用電気機器メーカーの技術職」で、簡単な試験と面接を経て採用が決まりました。
入社初日、部長からの言葉は今でも鮮明に覚えています。「お前の代わりはいくらでもいる。辞めるなら早くした方がいい」新入社員に向けたその言葉に、私は驚きました。
あれだけの厳しい現実を提示され、心から仕事に取り組むべきだという意味に今では気づきますが、当時は理解に苦しみました。
しかし予想していた以上に、職場はパワハラが渦巻き、「バカ、ボケ」といった言葉が飛び交い、「死ね」とまで言われました。
まだ成長過程にある会社だったからか、社員達の熱量が際立ち、それこそが暴風のような環境を生み出していました。怒号が飛び交うのも日常風景でした。
「昭和」の精神が息づくその時代。
労働の現場で上司と馬鹿話を交えながらグラスを傾け、遠回しの叱咤激励を受ける。厳しい言葉であっても、現代のパワハラとは一線を画す、ある種の人間愛に溢れたものでした。
そう、それが私の上司との関係であり、彼は私を信頼し、そして愛してくれていたのです。
次第に、私の努力は評価され、小さな部門の技術責任者として推挙されました。そして、そこから私の成績は急上昇。日々、挑戦と成果が重なる日々でした。
だが、その道のりは平坦なものではありませんでした。
転勤が常に私を追い詰め、2年から3年を周期に、九州各地を転々としました。それでも30歳にして、各県の管理職としてのポジションを手に入れることができました。
結婚のチャンスは少々遅れましたが、38歳の時に素敵な伴侶と出会い、幸せな家庭を築くことができました。そして、次なる目標は部長への昇進。そう、私の野望は頂点へと向かっていました。
ところが、そこで激変が訪れます。
組織の体制が一新
上層部のメンバーが全面的に変わり、私は無難な評価しか受けられず、孤立していくような状況に立たされました。
私にとって不利な勢力が台頭し、私は彼らにとって邪魔者となってしまいました。
私の存在は、彼らにとって痛烈な鼻くそであり、私が持つ影響力をうらやみ、私を排除しようという動きが見えてきました。まさに「サラリーマン社会のあるある」です。
その後、突然の人事異動で私は課長から一般の技術職へと降格されました。成績がわずかに下がった年であったにせよ、降格するほどのものではなかった。
事の真相は後になってわかりました。当時の部長と私は昔、大きな諍いを起こしていた。彼はその過去の怨恨をずっと持ち続け、この人事異動を画策したのです。
彼の取り巻きたちは、彼が「俺が、降格させた、これで終わりにしてやった」と言っていたと私に教えてくれました。
私のプライドは無残にも打ち砕かれ、怒りを抑えることにも一苦労。受け入れるにも時間がかかりました。これまで部下だった者が上司になるというのは、相当な打撃です。
しかし、何もかもが終わったわけではありません。この遭遇を教訓に、自分自身を見つめ直すことにしました。それが、私の人生を見つめ直す良い機会となりました。
「もし自分で収入を得ることができれば、会社を辞めてもいいのに」と考え始めました。
そして、自分で収入を得る方法を見つけ出すための模索が始まりました。「気づくのが遅いけど」私の新たな挑戦の幕開けです。
副業を始めるも…
「挫折と挑戦」は私の人生の二大柱です。株式投資からインターネット上のアフィリエイト、Youtubeからセミナー講師まで、私の人生はあらゆる試みの連続で、それぞれが私を一歩ずつ前進させてきました。
2014年にYoutubeという未知の領域に踏み出しました。私のチャネルは毎月数万円の利益を上げることに成功しましたが、一夜にして全てが無くなりました。だが、あの時、私が諦めずに続けていたら、今頃はどうなっていたのでしょうか?
2015年、その後の世界を変えることになるビットコインを初めて手にしました。しかし、2年後の2017年、詐欺に遭遇し、全ての資産を失ってしまいました。
それから2年後の2019年、私は再びブログの世界に足を踏み入れました。しかし、それは苦戦の連続で、期待した成果は得られませんでした。
そんな困難を乗り越え、2020年、私は再びブログと仮想通貨への道を歩み始めました。興味深い最新技術に魅了され、これらについて継続的に学び、今ではかなりの知識を持つに至りました。
そして、私は決心しました。仮想通貨の情報をブログに発信し、これからの挑戦者たちに役立てる。それは同時に、私自身の学びとアウトプットの場となるでしょう。
仮想通貨ブログを始める
そして、私は決心しました。仮想通貨の情報をブログに発信し、これからの挑戦者たちに役立てる。それは同時に、私自身の学びとアウトプットの場となるでしょう。
私の目指すのは、40代から50代の方々に、投資や情報発信を通じて自身の可能性を拡げ、経済的な自立を果たす手助けをすることです。
これからの時代は人生100年時代。50歳という年齢はまだ人生の中間点にすぎません。これからの生活を楽しむために必要な資金をどう増やしていくのか、一緒に考え、共に進んでいきたいと思っています。
クリプト通貨、Web3.0、NFT、DeFi。これらの新技術は若者だけが楽しむものではありません。私たち中高年も積極的に参加し、資産を増やすべきです。
そして今、僕はAIという新たなる鉛筆を手に入れました。仕事の効率化という未知の領域を、この筆先で描き出している最中なのです。
それぞれの経験と学びは、ブログ記事を通じて、時には混沌とした筆跡となり、時には明快な線となり、私自身と読者の皆様の間で新たな知識の地図を描いています。
それが私、「カイカイ」の歩んできた道。いえ、これはまだ進行中の旅路。我が人生の地図はこれからもAIの墨で書き続けられるのです。